第1話 ただのTシャツじゃない、というただごとじゃない話

第1話 ただのTシャツじゃない、というただごとじゃない話

服はしゃべらない。

ということに、いちおう世間ではなっている。Tシャツが朝の挨拶をしてきたら怖い。パーカーが今日の天気を教えてくれたら、便利だけどやっぱり怖い。キャップが人生相談に乗ってきた日には、それはもうファッションじゃなくてカウンセリングだ。月額いくら取られるのかもわからない。

だから服はしゃべらない。しゃべらないことになっている。

でも、しゃべらないものにだって、言いたいことのひとつやふたつはあるのだった。

TENPLUSの倉庫では、夜になると服が少しうるさい。

「明日、誰のところに行くんだろう」
「ちゃんと似合うかな」
「好きって言ってもらえるかな」
「……買ったあと、袋のまま積まれたらどうしよう」

最後のやつだけ妙に現実的だった。というか切実だった。袋のまま積まれる服、世の中に結構あるらしい。

そんな声を聞き流しながら——聞き流しているのか聞いているのか、本人にしかわからない顔で——TENPLUSのロゴの前に、ふわりと浮かぶ小さな影がひとつ。

丸い頭。三日月みたいな輪郭。マゼンタ色の体。胸の前で、小さな腕をぎゅっと組んでいる。

名前は、てんぷらくん。

天ぷらではない。食べられない。本人いわく「TENPLUSがちょっと短くなっただけ」なのだそうだ。ちょっとどころではない気もするが。

「僕、天ぷらじゃないからね」

誰にも聞かれていないのに、てんぷらくんは言った。腕は組んだままである。

「まだ何も言ってないけど」

隣で、黒いオーバーサイズTシャツの女の子がスマホから目も上げずに返した。

てんてんちゃん。TENPLUSの"点"から生まれた女の子——という設定、ではないらしい。本人が本気でそう主張しているし、実際、彼女の瞳は少し不思議だった。澄んだ青の奥に、片方にはX、もう片方には十字の光がごく小さく浮かんでいて、見る角度によってかすかに揺れる。明滅しているようにも見える。TENPLUSの印そのものが目の中に住みついている、と言われたら、まあ、信じるしかない。

だから、たぶん本当なのだろう。たぶん。

「言われる前に否定するのって、だいたい気にしてる証拠だよ」
「気にしてないよ。僕は天ぷらじゃなくて、てんぷらくんだから」
「名前がややこしいんだよ」
「TENPLUSがかわいくなった名前なの!」
「自分で言うんだ」
「大事なことだからね」

てんぷらくんは、さらにぎゅっと腕を組んだ。小さいくせに態度だけは大きい。ただ、この腕組みは威張るためだけのものでもない。

考えているのだ。服のこと。人のこと。まだ誰にも言えない"好き"のこと。……たぶん。半分くらいはただの癖かもしれない。

てんてんちゃんはスマホを伏せて、出荷前の黒いTシャツを一枚持ち上げた。プリントされているのは、ひとりの女の子。青春とか、野球とか、夏とか、少し不器用な"好き"の匂いとか、そういうものが全部入っている絵だった。

「この子、今日ずっとしゃべってる」
「Tシャツが?」
「うん」
「なんて?」
「早く着られたい、って」

てんぷらくんは首をかしげた。

「服って、着られたいものなの?」
「当たり前でしょ。服は飾られるために生まれるんじゃない。着られるために生まれるの」
「名言っぽい」
「名言じゃなくて、仕様」
「仕様なんだ」
「そう。服の基本仕様」

てんてんちゃんはTシャツを広げた。黒い生地の上で、プリントの女の子がなんとなく誇らしげに見えた。気のせいかもしれないが、こういう気のせいは大事にした方がいい。

「でもさ」とてんぷらくん。「好きなものなら、みんな普通に着ればいいのにね」

「その"普通に着る"が、一番むずかしいんだよ」
「なんで?」
「好きって、案外目立つから」

てんぷらくんは黙った。

「好きな作品。好きなチーム。好きな音楽。好きな人。好きなものを身につけるって、ただ服を着ることじゃないの。自分の中にあるものを、外に出すことだから」
「外に出すとどうなるの?」
「誰かに見られる」
「見られると?」
「話しかけられるかもしれない」
「いいことじゃん」
「うん。いいこと」てんてんちゃんは少し間を置いた。「でも、それが嬉しい人もいれば、ちょっと怖い人もいる」

倉庫が静かになった。Tシャツたちのおしゃべりも、段ボールの影に隠れるみたいに小さくなる。段ボールとガムテープの匂いだけが、いつも通りそこにあった。

そのとき、てんぷらくんがぴくっと動いた。

「今、腕が鳴った」

真顔だった。

「……腕って鳴るの?」
「鳴るよ」
「関節の話?」
「違う。好きが迷ってる感じがする」
「それ、腕じゃなくて勘じゃない?」
「違う。てんぷらくん的には腕」
「急に主語が強いな」

てんぷらくんが組んだ腕に力を入れると、腕の輪郭がふっと光った。夜の空気が揺れる。閉まったシャッターの向こうから、誰かの迷いがすうっと入り込んでくる。

『好きだけど、着る勇気がない』

てんぷらくんの体が、もう一度ぴくっと跳ねた。

「ほら。やっぱり腕だった」
「はいはい、腕ね」

てんてんちゃんは黒いTシャツを抱えて立ち上がった。

「行くよ」
「どこに?」
「迷ってる人のところ」
「僕たち、店員さんじゃないよ?」
「店員じゃないよ」てんてんちゃんはロゴを見上げた。「点と点を線にする係」

てんぷらくんは、ちょっとだけ得意そうに腕をほどいた。その瞬間、床の小さな影から一本の光の線が伸びる。線は倉庫の床を走り、段ボールの間を抜け、シャッターの下をくぐって、夜の街へ続いていった。

「……これ、毎回ちょっとかっこいいよね」
「ちょっとじゃない。かなりかっこいい」
「TENPLUSだから?」
「TENPLUSだから」

てんてんちゃんは迷いなく歩き出した。てんぷらくんは歩くというより浮きながら、少し遅れて追う。

「待ってよ! 僕、そんなに速く浮けないんだから!」
「歩いてないのに?」
「浮くのも疲れるんだよ!」
「それ、どういう仕組み?」
「僕にもわからない!」

次の瞬間、ふたりは街にいた。

夜の商店街。閉まりかけのシャッター。まだ明かりのついているコンビニ。遠くで電車の音。自販機がブーンと低く唸っている。夏の夜特有の、少し湿った、生ぬるい風。

その中に、青年がひとり、スマホを見つめて立っていた。

画面にはTENPLUSの商品ページ。黒いTシャツ。キャラクターのプリント。新作のコラボアイテム。青年は何度もスクロールしては戻り、スクロールしては戻り、「カートに入れる」の前で指を止める。もう五分くらいそれをやっている。

普通の人間に、てんぷらくんとてんてんちゃんの姿は見えない。ただ、服に迷っている人の心には、少しだけ届く。

青年がぽつりと言った。

「キャラTって、外で着るのちょっと勇気いるんだよな……」

てんぷらくんは目を丸くした。

「なんで? 好きなら着ればいいじゃん」
「人間はね、好きなものほど隠したくなる時があるんだよ」

てんてんちゃんが青年の隣に立つ。

「変に思われたくない。似合わなかったらどうしよう。グッズっぽすぎたら恥ずかしい。そういうの、全部いっぺんに考えるの」
「めんどくさいね、人間」
「うん。めんどくさい」

てんてんちゃんは、少しだけ笑った。

「でも、そのめんどくささの中に、本当に好きって気持ちがあるんだよ」

青年の指が、また止まる。

「部屋で着るだけなら、たぶん買ってる。でも、外で着るってなると……」

言葉は最後まで声にならなかった。でも、てんてんちゃんにはわかった。てんぷらくんにも、たぶん半分くらいはわかった。

好きなものを着るのは、簡単そうで、簡単じゃない。自分の中にあるものを外に出すことだから。誰かに見つかるかもしれない場所へ、自分の"好き"を連れていくことだから。

てんぷらくんの腕が、また小さく鳴った。

「てんてんちゃん」
「うん」
「このままだと、好きが消えちゃう」

てんてんちゃんは青年のスマホを見た。黒いTシャツ。その中の女の子。まだ誰にも着られていないのに、確かにどこかへ行きたがっている服。

てんてんちゃんが、静かに息を吸う。

「じゃあ、つなぐよ」

てんぷらくんが腕をほどいた。

夜の街の音が、一歩引いた。コンビニの白い光も、遠くの信号も、シャッターに映る反射も、みんな少しだけ遠くなる。代わりにTENPLUSのロゴが淡く浮かんだ。誰かに見せるための光じゃない。迷子になりかけた"好き"を、もう一度見つけるための光だ。

「点から点、繋げる線」

てんてんちゃんが言い、

「線から面、面から縁」

てんぷらくんが続けた。

足元の光が線になって、青年のスマホ画面へ伸びていく。画面の中の黒いTシャツが、街の風景の中へふわっと広がった。

てんてんちゃんが、そっと息を吹きかける。

風が吹いた。夏の夜風。強くはない。青年の前髪を少し揺らして、スマホの画面をほんの少しだけ明るく見せる、それくらいの風。

その一瞬、画面の中の黒いTシャツが、街の中に浮かび上がった。

いつものパンツ。履き慣れたスニーカー。夜のコンビニ。駅前の道。友達と並んで歩く商店街。ちょっと遅い時間の、自販機の前。

そのどこにでも、黒いTシャツは不思議なくらい自然に馴染んでいた。派手に叫んでいない。かといって、黙ってもいない。好きなものを隠しすぎず、見せすぎない。ちゃんと街へ連れていける形が、そこにあった。

青年はもう一度、画面のTシャツを見た。黒い生地。キャラクターの置き方。プリントの大きさと余白。ボディとのバランス。ただ絵を載せただけじゃない。好きなものを"街で着られる服"にするための、距離感みたいなものがある。キャラクターTシャツなのに、キャラクターだけで終わっていない。普段の服にも混ざりそうで、それでいて、ちゃんと好きが残っている。

そのとき、声が聞こえた気がした。

『大丈夫。僕は、ただ目立つための服じゃない。君の好きなものを、ちゃんと街に連れていくための服だよ』

青年はゆっくり息を吐いて、もう一度画面を見た。キャラクターの絵。黒い生地。いつものパンツにもスニーカーにも、たぶん合う色。自分の好きなものを、少しだけ外に出せる形。

それから、ほんの少しだけ笑った。

「……このデザインなら、普通に街で着られるか」

指が、画面の上を進んだ。

つないでいた光が、すっと消える。夜の街の音が戻ってくる。車の音。コンビニの自動ドアの音。遠くの電車。シャッターの隙間を抜けていく風。

てんぷらくんが跳ねた。

「やった! 指が進んだ! 今、進んだよ、てんてんちゃん!」
「うん」
「僕たち、何かした?」
「したよ」

てんてんちゃんは、夜風に揺れる髪を押さえた。

「好きって気持ちが消えないように、少しだけ明かりをつけた」
「それって、魔法?」
「違うよ」てんてんちゃんは笑った。「服が似合う未来を、ちょっと見せただけ」

青年はスマホをポケットにしまって、来たときより少し軽い足取りで歩いていった。

きっと数日後、彼のもとに黒いTシャツが届く。最初は部屋で着てみる。鏡の前で、ちょっと笑う。次は近所のコンビニまで。それから、いつもの友達に会う日に着ていくかもしれない。

そして誰かに、こう聞かれるかもしれない。

「それ、何?」

そのとき初めて、服は本当の意味で声を出す。

好きな作品の話になるかもしれないし、野球の話になるかもしれない。思い出の話になるかもしれないし、ただ「いいね」で終わるかもしれない。それでもいい。会話が生まれるっていうのは、長話をすることじゃない。自分の好きなものが誰かの目に触れて、誰かの一言で、自分の中の好きがちょっとだけ肯定される。その小さい瞬間のことだ。

てんぷらくんは青年の背中を見送りながら、また腕を組んだ。

「服から会話が生まれるって、こういうこと?」
「そういうこと」
「じゃあTENPLUSって、服屋さんだけど、服屋さんじゃないんだね」
「うん」

てんてんちゃんは、夜の街にまっすぐ立った。

「好きなものと、人をつなげる場所」
「点と点を?」
「線にする」

ふたりの足元に、また光の線が現れた。倉庫へ戻る道じゃない。次の誰かの迷いへ続く線だった。

てんてんちゃんは歩き出す。

「好きなものを着るのに、ひとりで悩ませるのはもったいないから」

てんぷらくんは慌てて追いかけた。

「待ってよ! 僕、そんなに速く浮けないんだから!」
「腕組んでるからじゃない?」
「腕組みは僕のアイデンティティだから!」
「じゃあ、そのまま頑張って」
「ちょっ、ちょっ、待ってよー!」

夜の街に、ふたりの声が小さく響いた。

誰かがまだ知らない服の声。誰かがまだ言えない好きの気持ち。誰かがまだ出会っていない会話。その全部をつなぐために、てんぷらくんとてんてんちゃんは今日も歩いていく。

いや、正確に言うと。

てんてんちゃんは歩いていく。てんぷらくんは、少し遅れて浮いていく。

TENPLUSの服があるところに、きっとふたりはいる。そして、いつもこう言うのだ。

「それ、ただのTシャツじゃないでしょ?」

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